• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

18歳で社会人

昭和42年熊本営林局武雄営林署

 国家公務員初級試験(林業職)に合格し、昭和42年4月1日熊本営林局武雄営林署に採用された。3月21生まれであるため、10日ほど前にやっと18歳になったばかりである。兄・守成が同行し武雄営林署に赴任した。社会人だ!独り立ちするぞ!という気持ちの反面、今まで他人の所に下宿した経験もなく、家族から離れて生活することは寂しかった。6月の梅雨時期に雨粒を見て一人涙したことを覚えている。
 赴任する前は、職場の若い同僚仲間と一緒に寮生活などを謳歌できると喜んでいたが、勤務地は営林署がある武雄市でなく伊万里市にある東山代担当区事務所である。警察で言えば駐在所みたいな所であり、現場に密着した国有林管理を行う現場第一線。通常は主任と呼ばれる駐在さん1人であり、国有林内を巡回し、盗伐や高山植物等の盗難を防いだり、地元の有力者の協力を受け、境界の確認等国有林の管理が主な仕事を行っている。私が赴任した東山代担当区事務所は、主任、先輩補助員と私との3人であった。というのは、国有林内の森林(スギ・ヒノキ)を伐採し、その木材を集材し(一カ所に集め)て、4メートルや6メートルの長さに切り、ある一定の量をまとめて販売する一貫の事業を行っていたのである。国は、国有林内にある森林を伐採し、木材を販売することにより収益を上げ、国有林や特別会計事業が成り立っている。
 昭和42年4月の初任給が1万6千7百円。住まいは、同担当区事務者から4キロメートル程離れた隣町の山代町浦の崎。この地に熊本営林局直轄の治山事業所が置かれ、炭坑後の陥没や土砂崩れ対策の治山事業を行っていた。この松浦治産事業所に寮があった。
 国有林野事業もまだ優雅な時代である。熊本営林局からたまに出張してくる職員のための宿泊場所である。たまの出張のために寮母さんもいた。もちろんこの寮の周囲に松浦治山事業所で働く職員の官舎もあった。職員4~5名は全員既婚者であり、療は空いていた。 所属は違うが、結局この寮を使用させてもらうことにした。毎日毎日出張者がいるわけでなく、大部分の日は、私のために寮母さんがいるようなものである。
 光熱水道料も基本額は国が支払い、年度末等で出張者が多くなると、次の月は寮費が安くなる。私と寮母さんの食い扶持は、出張者の食事に含まれていたに違いない。まだまだ、古き良き時代であった。
 仕事の方は、伐採予定の場所選定。測量により面積調査、そこに育っているスギ・ヒノキの量を調査(立木調査)する。次年度は、スギ・ヒノキの伐採、寄せ集め、集積までを地元の人達が任意的に組織している「愛林組合」が請け合う。私は、先輩補助員と一緒に材木の1本1本の切り口の直径を測り、一塊りになった材木の山の材積を計算し、営林署本署に報告する。一塊りになった材木の山には、盗難防止のため、ペンキで線を引く。主任や先輩補助員が居ないときは、集材機の運転を行った。山の尾根から尾根へケーブルを張り、ワイヤーを張り巡らし、そのワイヤーに材木を縛り付け、機械の力で引き寄せるのである。無線により連絡し合い、10数メートルの木を3~4本、ガガッーという音を響かせ寄せ集めることは豪快な仕事であった。
 このほかの時の仕事は、立木の盗伐等がないか、国有林の中を巡視して歩く。まだ、四輪車がない時代で、担当区主任のバイクの後ろにしがみつき、林道の最終地点まで行く。その後は、山の中を、道なき道を図面とにらめっこしながら、境界線等の確認を行う。「○時にバイクを止めたところで落ち合おう」と約束し、主任さんと別々の行動をとることもある。佐賀県内の山の中であるので、ほとんどが人工林であり、動物に出会うことはヘビくらいであった。肩からぶら下げた図面を見ながら境界を確認し、腰には腰なたと手ぬぐいを吊し、鼻歌交じりに歩き回った。
 森林を伐採した後は、植林の作業が残っている。この植林作業も、国(営林署)が直営で行うのでなく、地元の人達が請け負って植林作業を行っていた。 請負作業に至までの面積調査や植裁する木の種類決定、植林後の確認作業等を行い山野を駆け巡った。営林署の現場なんて暇だろう!なんて思っていたのに、結構忙しい毎日であった。このような経験が孤独の生活にも慣れたのかも知れない。このようにして、18歳~21歳までの青春時代の3年間はまたたく間に過ぎていった。
  熊本営林局が発行している広報誌「暖帯林」に月投稿している。

林野庁への配置換え

 営林署の担当区事務所といえば、警察署でいう派出所みたいなもので、組織の現場第一戦である。「石の上にも3年」というが、3年経過しても転勤(異動)の話はなかった。療での一人だけの生活は淋しかったが大学の通信教育を受けていたせいもあり、転勤の希望調書には、就職した2年目から「勉強したいため第1希望は林野本庁、第2希望は現任地」と、冗談半分・本気半分で書いていた。
 ヒョウタンから駒、昭和45年7月1日付で武雄営林署への配置換えの辞令が出た。その当時、武雄営林署の独身寮には4~5名の若人がおり、あぁ~これでみんなの仲間になれると喜んだ。7月4~5日頃、喜び勇んで同僚・友人のいる武雄営林署本署に移った。すると、わずかな荷物の紐を解く前に、今度は林野庁本庁への異動内示が出た。この時は驚いた。ノンキャリアに加え21歳かそこらの若造が東京の林野庁へ異動するなんて。駐在所の見習い職員が霞ヶ関の警察庁に転勤するみたいなものだ。自分自身も驚いたが周囲の人達はもっと驚いていた。
 7月下旬から始まる大学の通信教育のスクーリングを受けるべく準備をしていたのに転勤が重なりあわただしくなった。一日たりとも無駄にできず、辞令をもらった当日の夕方には東京に向けて発った。
 辞令が出た翌日には、林野庁に出勤した。通信教育のスクリーングの話を庶務担当に話すと、まだ着任の印鑑は押すな!と言われた。当時、地方からの転勤者に対しては2週間の赴任期間が許されていた。霞ヶ関の役所はまだまだノンビリした雰囲気の時代であったため、まだ赴任していないということで、その間は勉強に集中しなさい!という。2週間後に着任しても、年次有給休暇を有効に活用し、まさしく働きながら昼のスクーリングを受講することができた。
 21歳の青年の中央官庁での初めても配属先は、林野庁経済課というところで、林業に関する金融業務に関する仕事であった。農林漁業金融公庫、林業信用基金あるいは都道府県の林業金融担当者との連絡調整等々である。つい最近まで、国有林の木材を伐採し、山(現場)で収量を確認し、販売すると、買い受けた業者がトラックで運ぶ一連の流れを見ていると、何でこんな仕事をやっているのだろう?と思ったのが正直な気持ちだ。
 住居に決まった、品川区にある林野庁の独身寮「若葉寮」は当時寮生は50人ほど住んでいた。鉄筋のコンクリートの5階建てのアパート形式で、作り付けのベッド・タンス等今でいうビジネスホテルみたいな感じであった。一番嬉しいのは友達が近くにいることだ。夕食の時も風呂の時も通勤の時も寮生誰かが傍にいる。夕食の時、ちょっと背伸びして缶ビールを飲むのもいる。夜、10時以降は、余っている料理を食べても良いルールを根拠に自分達の階の娯楽室に運び酒盛りを楽しんだ。労働組合談義、芸能界、世相、ケンケンがくがく真面目に茶碗酒を楽しんだ。
 毎年年末の予算編成作業の時は、当然のことながら、雑用として活躍した。大蔵省に対する予算要求や予算編成作業がどのようなシステムで動いているかも知らず、一種のお祭り騒ぎであった。古き良き時代(?)で、都道府県の担当者もゾロゾロ顔を出し、一次査定がどうだの、二次査定がどうなの、待ち時間が長く上司が麻雀をやっているときなど、豚汁作りや焼酎のお湯割り作りの役割であった。今では、考えられないことだ。 法律ができあがる課程での仕事にも携わった。当然、法律を作るのは国会の仕事であるが、法律案を提出するのは内閣(各省)である。法律案の草案の時から、農林水産省内の協議はもちろん、各省への調整・協議が必要となる。まだ20数歳そこそこのノンキャリア職員の私が、先頭に立って各省との調整・協議等を行うわけでではない。もっぱら、読み合わせ、清書(まだ、ワープロがなかった)、コピー、製本等の仕事である。国会用に通称「吊し」と呼ばれる想定問答集の作成、委員会が始まれば、担当国会議員からの質問に対する回答準備、回答案ができあがるまでのりん議決裁。歯車の一つであるが、法律が出来るまでのプロセスを経験できた。役所の中の一係員であっても、経験は財産になることを学んだ。

労働組合活動

現場第1線での仕事から霞ヶ関への転勤で、職場や寮にに同じ年代の人たちがいることで嬉しくもあり、労働組合運動も積極的に行った。
 昭和40年代は、労働組合運動の指導部隊として総評、同盟がしのぎを削っていた。国有林野事業は、当時の3公社5現業として、国有林野事業特別会計制度を堅持し、職員も一般職の公務員と異なり特別職の公務員である。
 国有林野事業の中に、第1組合として総評系の全林野労働組合、第2組合として同盟系の日本林業労働組合(日林労)を存在していた。社会人になりたての武雄営林署時代は、第2組合の日林労に所属していた。担当区事務所勤務で寮でも一人ぼっちの私は、特に組合運動に積極的でもなく、年1回の定期総会時に顔を出す程度のいわゆるノンポリ型組合員であった。
  林野庁本庁内には、国有林を担当する部署(国有林野事業特別会計職員)と民有林等を担当する部署(一般会計職員)が混同している。同一課の職員で特別会計職員と一般会計職員とが同居しているところもあった。国有林を担当する部署(国有林野事業特別会計)には、総評系(全林野)、同盟系(日林労)と2つの労働組合が存在していたが、給与法適用の一般行政職においては、総評系の全農林労働組合一つであった。林野本庁への異動後は、民有林等を担当する部署(一般会計職員)に所属したことから、全農林労働組合に加入した。 時はまさに高度経済成長時代。年には東京都において美濃部革新知事、大阪においては黒田知事等々いわゆる革新知事が誕生していた。高度経済成長期の中での春闘、思想信条の自由を問う三菱高野事件、ベトナム戦争反対行動、革新知事の誕生、小選挙区制反対行動、原水爆禁止統一行動、メーデーへの参加、農林水産省の中では勤務評定反対闘争、林野庁の中では差別反対闘争、全農林東京都本部内の各分会対抗の他運動会や球技大会等々色々な活動に参加した。
 百数十名の林野庁分会には青年婦人部があり、学習会やレク活動等、今まで一人ぼっち生活からの身にすれば、何事も新鮮味があった。
 当時、林野庁の人事の一環として、国有林の現場で働く若い進学希望者を原則として4年間、現場から林野本庁へ転勤させて就学(主に大学)の機会を保障し、4年間経過後は原則として原局復帰復帰させる「勉学交流制度」制度があった。林野本庁では青年層の主力が勉学交流生で構成され、職場活気の源泉となっていたが、送り出す側の営林局署では、新規採用者抑制の中で青年層が少なくなったこともあり、一般の人事交流の中で行われるようになった。
 昭和50年3月に最後の勉学交流生が帰るまでの間、全林野の本庁、東京営林局、東京営林署、全農林の林野、林業試験場の5者で「5林青年婦人協議会」(5林協)を設け、ダンスパーティやその講習会、ピクニック等を行って交流するとともに、東京都本部主催の運動会や球技大会等でも活躍し好成績を挙げた。特に、毎年暮れに農林水産省7階講堂で開催した5林協主催のタンスパーティは、トラックを使い高尾の山から高さ5メートルに近いモミの木を運び、クリスマスツリーを飾り付けたりして、その豪華さでは農林水産省内でも有名になった。
 1ドル360円であった円が変動相場制に移行し、第一次オイルショックの昭和48年には、同盟系の日林労職組による全農林への分裂攻撃が行われ、これに対する反論等ドロドロしたものを垣間見た感じであった。翌49年にはインフレが激しくなり、賃金引き上げ要求も高まった。3月26日の1時間、4月11日の1日、13日の半日ストライキに対し、当時青年婦人部長であった私は、積極的にオルグを行い、林野庁分会も久方ぶりにストの戦列に復帰し、英雄気取りになった。
 全農林労働組合は、「当局の勤務評定は、企業に対する忠誠心、企業目的達成への貢献度を基準とした職場管理である」として反対闘争を行っていた。この勤務評定反対闘争の一環として、51年に林野庁分会の主な活動かに対する昇級・昇任の差別実態を明らかにし、差別撤退闘争にも明け暮れた。この年も青年婦人部長の役職であり、農林水産省正面玄関でのビラ配布、各分会に対する協力要請、最終場面では、東京地評とともに林野庁長官確認交渉にまで発展した。このような活動を通じ、それまでの昇任・昇格が国有林野事業特別会計人事に合わせていたのを、「農林水産本省内局並み」となることができた。 昭和62年「全農林林野庁分会30年誌編集委員会」のメンバーとなり、分会誌を整理し始め、63年9月に出来上がった。翌年(平成元年)には九州農政局への転勤となり、林業関係の仕事から離れていった。 国有林の経営は、昭和37年には伐採量が成長量の1.84倍となり過剰伐採はピークとなったのに材価は横ばいで、この年収支差22億円の赤字となり、初の「赤信号」が灯った。入省した年(昭和42年)には損益で260億円という特別会計制度創設以来の大幅黒字を計上したものの、林野本庁に転勤した昭和45年度から赤字傾向となり、51年度からは急速に財政悪化していった。

空手バカ

 林野庁への転勤(45年7月)後、通信教育のスクーリングが終わる9月頃に、霞ヶ関空手クラブに入部した。東京大学空手部で活躍した芝田博氏が農林省に入省(昭和33年)した年に社会人クラブとして組織している。公務員の代名詞である「霞ヶ関」を冠とし、いわゆる公務員の空手同好会である。部員は農林省職員のみでなく、文部省や科学技術庁等職員も足を運んでいた。運動不足になること、何かに打ち込むことに熱中したかったこと等、単純な動機から入部することにした。練習場は屋上のコンクリートの上。当時は、勤務時間もアバウトで11時45分頃になると、屋上に行き空手着に着替え12時になると、即、練習。たっぷり1時間練習。1時になるとシャワーを浴び着替えて職場に戻ると、1時15分位になっている。その後、堂々と地下の食堂に昼食に走る。
  少ないときで5~6名、多いときは20名にもなる。黒帯先輩の号令で、準備運動、その後整列して正座、正面や講師あるいはお互いに礼をして、稽古の始まり。その時々により基本の突きや蹴り、形の習得、試合形式の自由組手等々をただひたすら行う。
 コンクリートの上での練習のため、夏の期間はコンクリートが焼け、足の裏の皮はベロリと剥ける。寒さの冬は、北風に晒され空手着一枚では暖まる暇もなく、練習後は水のシャワーを浴び、身体を温めるため、亀の子タワシで身体を磨いた。20代であればこそできたのであろう。まだまだ黒帯の先輩が怖い時代で、力を抜くことも判らず、ただひたすらに黙々と練習に励んだ。1年に3~4回ほど昇級審査が行われ、白帯から緑帯(6~4級)、茶帯(3~1級)と移っていく。昇級審査は、基本の部、形の部、約束組手、自由組手等が行われる。霞ヶ関空手倶楽部から派生した文部省空手部、経済企画庁空手部、林業講習所空手部等の部員が集まり、昇級審査が行われる。時々顔を合わせる同じレベルのメンバーに対抗意識も生まれる。昇級審査が終わった後は、結果発表と懇親会である。空手談義に花が咲く。一番楽しい時だ。
 夏には合宿があり、極寒の時には寒稽古が行われる。現在はそうでもないと思うが、当時は、社会人の空手クラブとは言えど、白帯と黒帯では奴隷と天皇みたい。空手倶楽部運営費の資金稼ぎにダンスパーティを企画したこともあった。当時は、まだ白帯の下っ端のため、パーティ券を売りさばかなければならない。東京で生活し始めたばかりの時、ノルマのパーティ券30枚を抱え、途方に暮れたことを思い出す。
 空手を始めて、2年5ヶ月後の48年2月に初段に合格した。なお、2段に合格したのは、5年後の53年2月であった。空手に打ち込んでいる時には、空手倶楽部の総務委員(練習方針や倶楽部の運営の責任者)も行い、個人ごとの年間練習実績を統計として取ることにした。私の最高練習日数は、年間、200日がある。土・日・祭日を除けばほとんど毎日練習したこととなる。53年11月には「霞ヶ関空手倶楽部20周年記念行事」も大々的に行った。
 なおこの間、霞ヶ関空手倶楽部の流派である和道会の大会や実業団体会、世田谷区の大会等色々な試合に参加した。農林水産省創立100周年記念式典の時には、記念演舞を行い、そのまとまった姿に大きな賞賛が寄せられた。林野庁の教育機関である林業講習所において、1週間に1回行われる体育の教科に空手とテニスが取り入れられた。この空手の講師として派遣されるよう要請があり、1ヶ月に2回、25歳前後の専攻科研修生(2年間)に対し、指導を行った。地方の営林局・営林署から勉強に来ている研修生にとっては、2年間しか期間がないこともあり、集中的に練習し、ほとんどの人達が黒帯になって元の局・署へ帰って行った。
 何かの大会の時、左手小指を関節が外側から内側へ飛び出す事態になり、内側の皮膚が縦に裂けた。関節を押し込み、近くの医者に行くと、麻酔を打たない方が治りが早いと説明され、生身の小指を麻酔もなく2針縫った。「空手をやっているからこの位の痛さは大丈夫でしょう」と言った医者の言葉を今も忘れない。

中央大学通信教育

卒業論文

 昭和42年10月に中央大学通信教育部に入学し、48年9月卒業することができた。6年間を要した。
 通信教育は自分が努力する以外前に進まない。大学を通信教育で卒業できたことは、自分の人生にとって非常にプラスになった。正直言ってその後勉強することが苦にならず、また継続する力が付いた。

通信教育と青春時代

 1971年(昭和46年)、中央大学の通信教育を行っている人達のグループで、勉強の継続や切磋琢磨を目的に「有楽町ミーティング」を組織した。私より2~3歳年上で、空手部の仲間であり海上保安庁に勤務していた石川健児さんが私と同じ、中央大学の通信教育で勉強していたことから、一緒に勉強する組織を作ろうということ意見が一致した。
 友達の友達を呼び、当初は数人(5~6名)で立ち上げた。有楽町の蚕糸会館の会議室を安く借りることができ、一週間に1回勉強仲間と会おうということで「有楽町ミーティング」と名前をつけた。事前に法律の問題と担当者を決め、担当者が司会となり、当該問題に関し各自の説を述べたり、異論を唱えたり、2時間ほど勉強する方法である。
 当初の頃は、法律用語もちんぷんかんぷんで、話す人達の一言一句に興味を持った。有楽町ミーティングを立ち上げてまもない頃、メンバーの一人が司法修習生(清塚弁護士)を連れてきた。有楽町ミーティングの顧問的立場になった清塚弁護士は高崎市出身で中央大学卒業後、司法試験に合格し、丁度司法修習生で勉強しているときであった。清塚先生が参加されていたときは、色々な説が飛び交っても、交通整理を的確にやってもらい、色々な考え方を理解して帰ることができた。清塚先生が不参加の時は、似たり寄ったりの苦学生(?)が口角に泡を飛ばしながら、話していることが正しいのか正しくないのかも判らず、ただ、一人前の顔だけはして討論していた。
 清塚先生は若い人と勉強することが好きなんだ、と言われ、ほとんどボランティア的に指導していただいた。清塚先生の指導や同じ境遇の多くの人達と知り合ったことから、判らないことは素直に聞くことができ、他の人の話にも耳を傾ける癖ができ、これらのお陰で、大学の通信教育も卒業できたものと思う。
  有楽町ミーティングの仲間は、酒屋の後継者、民間企業、役所関係、独学で勉強している者、なかには昼間の大学生でありながら参加している者もいた。、 法律問題が判ろうと判るまいと、1週間に1回会うことが楽しいことであった。私は、ひたすら通信教育の卒業に目標を置き、無事卒業はできたが、「弁護士になりたい」と言う大きな夢を持っていた友人の一人(大谷さん)は、独学で司法試験に合格してしまった。同じ仲間内から、努力して司法試験に合格したことは、本当に嬉しいことであった。
  この自分史を作ろうとしたとき、本棚の整理をしたら、卒業論文集が見つかった。有楽町ミーティングのメンバーが中心となり、15名の通信教育生が卒業論文を寄せ合い一冊の本にしているのである。色々な職種、職場で働く青年が、自分の身近な問題点を卒業論文にしている。参議院事務局で働くものは、「議員警察権の法的性質」、教育関係者は「障害児の教育を受ける権利」そして、当時組合活動も行っていた私は、「官公労働者の争議行為と懲戒処分」をテーマとしている。
 清塚弁護士には、巻頭の言葉を書いていただいた。野間宏著「親鸞」から、親鸞の書いた教行真正の中に「二河の○○」という喩え話しがあることを紹介している。一人の人が遠く離れた、西方のある地に向かっていき、火の河、水の河の遭遇し、行き先困難な幅4~5寸の白道選択する話しである。「引き返せば死、又、泊まっても死、しかし前に進むも死である。どれ一つをとっても死ぬほかないのなら、私はこの道を進もう。私は西に行こうと思って、歩き始めたのだ。私は現にこの道の上にいる。どうしても渡って行かなければならない。」もちろん、此岸より彼岸に至る苦難、すなわち「さとり」に至る苦難を示したものであろう。
 通信教育で大学を卒業した我々に、確信を持って一心に目的に向かう、既に行動した異常迷わず突き進むことを、はなむけの巻頭言とされている。
「私は、物事に対した場合に、その人間の「信」あるいは「観念」によって、事態は全く一変してしまう、あるいは更に積極的に一変してしまうのではないかという風に感じるものである。迷いのない人間などこの世に存在しないと思うが、物事に相対した場合、動ぜず、信念を持って自分の道を貫き通せる人間、そんな人間になれないものかと思う。
 迷い、苦しみながら、すぎ去ったことを悔いず、未来に対する甘い夢を追わず、現実の一日一日を生き、励む、そんな積み重ねが、人間に自身を植え付けるのではないだろうか。昨日を背負い、明日をはらむ今日という一日一日を一心に生きることこそ、過去を反省し、未来に対する意欲を養うものだと思う。」 有楽町ミーティングの仲間と、「すぎ去ったことを悔いず、未来に対する甘い夢を追わず、現実の一日一日を生き、励む、そんな積み重ね・・・」の言葉が私に人生に大きな助けとなっている。

 国家公務員(初級職・林業)試験に合格し、昭和42年4月、武雄営林署に就職先が決まった。住むところは、佐賀県伊万里市山代町の浦の崎というところであった。週末等話す相手は寮のおばさんか、時々行く散髪屋の親父さんくらいである。散髪屋(山本)さんは1階で散髪屋、2階で奥さんが美容院を経営していた。その美容院でインターン生として、妻(トシ子)は働いていた。出会いのきっかけは、友達もいなくブラブラと散髪屋に遊び(将棋指し)に行き、そこで彼女と顔を合わせたに違いない。トシ子は、美容院経営(山本千鶴代)の妹であった。妹と言っても、トシ子の両親(前田夫婦)に子供が授からないため、養女として前田夫婦に千鶴代がもらわれてきたのである。その後、前田夫婦に子供(女性3名)を授かっている。昭和44年頃に出会っているので両方とも20歳前後である。たまの休みに、お茶を飲んだり映画を見たりの交際でをしている間に、45年7月、東京(林野庁)への転勤となった。その後は遠距離恋愛を続けた。1年に1~2回、九州に帰ったとき会うことができ、彼女(トシ子)の方でも、東京に次姉(久江)が生活していたこともあり1年に1回位は東京に来ることがあり、会うことができた。
  48年3月、結婚を決心し、両親に紹介することとなり、一緒に阿蘇に帰ることにした。その頃、親父(守)は、70歳代で病気がちでもあり、妻となる女性を紹介しておきたい気持ちもあった。自分の力で、大学を卒業すれば親の反対もないことだろうと思い、紹介することにした。3月に中央大学の通信教育を卒業する予定が1科目だけ単位が足らず、半年間卒業は延期となったが、既に卒業のめどは立っていた。
 今、考えると劇的なものであるが、彼女を紹介したとき、父は病に伏せっており、弱々しくなっていたこともあり、トシ子の手を握り「正三を頼んだよ、頼んだよ!」と、涙を流していた。翌日、容体が悪くなり、即、入院した。
 持病の心臓肥大症が原因で入院後1日で帰らぬ人となった。まだ、家に残っていたトシ子は行く場所がなく、田舎の目もあることから、親父の死を聞くと、逃げるように我が家を後にして、故郷の佐賀(伊万里)の実家に帰った。
 父が亡くなったこともあり、喪に服するため、結婚も1年間の延期となった。仲人は、職場の上司にお願いした。この頃は、結婚式も会費制が流行しており、披露宴等の流れや受付等については、職場の友人、通信教育の友人・有楽町ミーティングの仲間が企画してくれた。
 結婚式は、安く上がるよう、港区の区立会館でとりおこなった。仲人は霞ヶ関空手倶楽部の創始者である芝田博氏に依頼したが、「職場の上司がいいだろう」と言うことで口添えをもらい、当時の林野庁企画課長であった石川弘氏にお願いした。後に、石川氏は農林水産事務次官まで務め、参議委員議員を2期勤められた。年末等には石川宅に子供を連れて訪れることもあり、石川夫人からも目を掛けてもらった。
 東京で執り行った結婚式には熊本から母、兄妹、妻の地元佐賀からは両親、兄妹が参加した。親族は少なく、友人関係が多かった。新婚旅行は、川崎港から船(サンフラワー号)に乗り、翌朝、和歌山那智勝浦に着き、○○方面の旅行となった。
 結婚当時は、宿舎事情が悪く官舎に入居することはできなかった。レンタカーを借り、寮生数人の手伝いを受け引っ越しをした。行き先はトシ子が借りていたアパートに転げ込んだ。お互いに、花嫁道具等もなく、とにもかくにも、都会の中で、自分達二人で生活していくことに没頭した。
 アパート生活は1ヶ月程続いた。その後、聖蹟桜ヶ丘にある宿舎に入ることができたが、数ヶ月後には再び引っ越しをしなければなりませんヨ、という条件付きであった。職場(霞ヶ関)までの通勤時間は1時間半ほどかかった。ほとんどが立ちっぱなしだったが、帰りの電車は新宿駅始発のため、座ることができた。49年8月に世田谷区の三宿の宿舎に引っ越した。聖蹟桜ヶ丘には5ヶ月であったが、周囲はまだまだ自然が一杯で、土・日には友達が押し寄せてきた。新婚の二人だけで、八丈島でのキャンプ、友人の結婚式で京都旅行、伊豆大島キャンプ等お金を掛けない楽しさを味わうことができた。


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