• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

小学校時代(昭和30年~35年)

29年4月阿蘇郡一宮町坂梨小学校入学
昭和35年3月 同小学校 卒業

 昭和30年、阿蘇郡一宮町立坂梨小学校に入学。団塊時代の始まりで、30名づつの2クラス(平成20年4月の坂梨小学校の新入学生は○名)。幼稚園や保育園に通った経験もない自分にとって、入学式の時、少し社会慣れした新1年生があちこち走り回っているのには驚いた。今思えば、幼稚園や保育園に通ったことのある同級生だったろう。3月21日生まれに加え、小柄であったため、背丈は前から2~3番目であった。この状態は小学校時代続いた。後ろの方は誰がいたかすぐに想い出せないが、この2~3番を争っていたのは、釣井勇君、岩下晃君等であった。学校は子供の足で歩いて1時間程。
 靴はちゃんと履いた覚えはあるが、靴下は冬の期間でも履いたり履かなかったようだ。あの頃の阿蘇は寒かった。まだ石炭のストーブで生徒が交替交替で枯れた杉の穂や細い木を学校に持ち寄り、石炭に燃え移るまでの材料にしていた。まだ、給食があるわけではなく弁当持参。石炭を焚くストーブが教室にあり、先生が弁当を温めてくれたが異様な臭いがしたことが鼻の先に残っている。脱脂粉乳のミルクが始まったのは小学校3~4年生になる頃だろうか?最初は、世の中にこんなおいしいものがあるのかと思ったが、慣れにる連れて余り美味しくないようになってきた。
 童謡にあるように、ウサギ追いもあったし、魚釣りにも近くの川に通った。物心付いた頃、春先になると父は、午前中近くの杉山の杉の穂を取り、午後は挿し木をしていた。1~2年生の杉の苗は山に植えた。この植林の手伝いも行った。夏は暑い中を杉林の下草切りである。昔の庄屋さんの持ち山杉の穂を採り苗木を育て、その苗を庄屋さんの山に植え、ある程度大きくなるまでの世話をしてお金を稼いでいたのである。正直者の父は全てのことをメモし対価を得ていた。その当時、お金持ち(山持ち)は、何もしなくても自分の財産が多くなってくるのに、親父はなんと馬鹿正直だろうと思った。あの頃植えた木々が大きくなっているのを見ると、地球上の財産なんて仮に誰かが持っているに過ぎないのかと思う。あの素晴らしい山々を育てたのが名もない自分の親父であったことを心ひそかに自慢する。
畑仕事は、長男・守成と母が行い、夕方学校から帰っても家にいたためしはない。それどころか、「○○にいるから水をもっと来て欲しい」「戸棚にあるおやつを運んで欲しい」等の伝言があった。
 1~2年生の時の担任が青木先生(女性)、3~4年の時の先生は顔は思い出すがどうしても名前を思い出さない。先生が出産で休校されたとき、代わりの若い先生が来られた。名前は覚えていないが、別れの時泣きながら行かないでとドアの所で手を引っ張ったことを覚えている。若い先生だったので、先生になるための実習生だったかも知れない。、5~6年生の時が高橋先生(男性)であった。5年生の時担任の先生が男の先生になると、何だか少しだけ大人になったような気がした。
 昭和34年、皇太子(平成天皇)のご成婚パレードがあり、テレビの普及時代である。また、この年熊本県で国体が開催された。その閉会式を全校生徒が体育館でテレビを見るのであるが、高橋先生のクラス一同は、学校の校庭にある先生の宿舎で、テレビを見た。他の人たちと違うことで、子供心に得意になった。
 高橋先生は童話を話すのが得意であった。それも自分で話しながら、どんどんと自分で創作していく。身振り手振りのジェスチャーを交えた童話に終わりがない。覚えているのは「けんちゃん・なわちゃん」である。剣ちゃんは剣道の達人で縄ちゃん縄投げの達人である。小学生のこの二人が冒険旅行に行き色々なアクシデントに見舞われる童話。穴に落ちこみ、絶体絶命になりながらその都度二人の機転で解決していく物語である。小学校5年~6年生で聞いた話を忘れることなく、甥っこ、姪っこが大きくなる時、自分の子供が大きくなる時、それをまねして何回か話してやった。今ではその話を孫に聞かせている。自分でも創作しながら話していくが、困ったことは、寝せようと思って話しているのにいつの間にか、こちらが眠ってしまうことである。
友達に古木英治君がいた。彼の父は国鉄の運転手(機関車の機関手)であった。当時は蒸気機関車がのみで、ディーゼル車はまだなかった。
 古木英治君の家庭の事情で、ある日、彼は父の仕事に同行することとなった。いわゆる出張先に同行するのである。一人では寂しいことから私が誘われた。熊本駅から大分駅までの豊肥本線の機関手の仕事である。私達二人は、大人に言い含められ最初はおとなしく客車に乗っていたが、途中から飽きてきた。 何処で乗り換えたか覚えていないが、途中から機関車そのものに乗り込んだ。ご存じ熊本県と大分県を結ぶ豊肥本線は、両県の県境はトンネルが多い。機関車の中は運転手と石炭を燃やす助手とが乗っている。それに小学生の私達二人が加わった。助手の人も良い人で私達に石炭を燃えるカマドの中に投げ込ませる仕事をくれた。今流で言う「労働体験」である。機関車の中は熱かった。大分市の国鉄の宿舎に着いたときは顔がすすけていたのをお互いに笑いあった。
 現代のようにテレビがあるわけでなく、塾があるわけでなく、友達と馬乗り、ビー玉、メンコ等々暗くなるまで遊んでいた。5~6年生くらいの時は風呂沸かしが自分の仕事であった。家には牛・馬がおり、その世話もした。子馬が生まれると子馬の運動のため、鞍も付けない母親の馬にまたがり、駆け回った。ウサギを飼ったり、山羊の乳を搾ったり、自然と動物が遊び相手の時代である。
 昭和33年に東京タワーが完成し、プロ野球巨人軍のあの長嶋茂雄が新人王を獲得した時代は、小学校4年生。先程映画化され大ヒットした「Allwayz 夕日丘3丁目」に出てくるあの少年達は、まさしく自分自身である。


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