• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

九州農政局への配置換え(平成元年)

  昭和63年4月、次男誠也が亡くなった。正直言って私自身がしおれていた。友達と酒場に行き、酒を飲んでいる時はいいが、ちょっとトイレに立つと脳裏をよぎるし一人での暗い帰り道ではおのずから想い出す。「こんなことではいけない。いけない」と思いながらも元気がなかった。加えて、長男真一郎の病気がどうなるかも判らず、このまま東京で生活していても将来の展望は開けない。家庭の状況や将来のことを上司や先輩に相談した。生まれ故郷の熊本に帰り元気を取り戻せ!何かのきっかけを作った方がいい・・ありがたいアドバイスをいただいた。早速人事異動の希望調書には九州方面を希望した。霞ヶ関の林野庁本庁で予算返済作業や国会対策等も経験した。今さら、国有林野事業特別会計事業の仕事からも離れていたし、農政一般である九州農政局を希望した。
 昭和64年1月には昭和天皇が崩御され、元号が平成に代わった。幸いなことに、平成元年4月、九州農政局構造改善課への配置換えが決まった。土地勘はあっても仕事上は初めてのことであり少しの心配はあったが「な~に、日本語の判る所じゃないか、ましてや、熊本弁は・・」との気持ちであった。
  東京での公務員宿舎が比較的広いところであったが、熊本の宿舎は親子4人では狭かった。「自然を求めて田舎に帰ろう~」なんて冗談半分にキャッチフレーズを作っていながら、狭い公務員宿舎であったため、女房や子供には、狭くなるのが自然なの?と冷やかされた。
熊本に移動し、4月中には例のごとく住所移転を始め諸手続を終え、長男真一郎については、熊本県総合福祉相談所に相談に行った。東京の時は、成城の公務員宿舎から通園バスを利用し、調布の養護学校に通っていた。あたりかまわず動きまわる病気であるため、国立菊池病院を進められた。
 5月連休明けから菊池病院への入院となった。家では4人での生活から3人の生活となり、夜中でも、今何やってるだろう・・と一人涙流した時に限り、黙って女房も涙していた。
  仕事の方は、当然判らないこともあったが、周囲の同僚の助けで順調であった。本省での経験は長かったが、出先においてグループで仕事をするのは初めてであり、ある面新鮮な感じであった。主な仕事は、農山村の活性化や定住化を図るため市町村が計画を立てたものを審査し、補助金を流す業務である。
 ある時、熊本県清和村の清和文楽館を建設する要望が上がってきた。約1億円の建設費である。文化活動を行うのに、農林水産省の予算で行っていいものかどうか、悩みもしたし県の担当者や同僚との議論も良く行った。隣の班では、同和対策事業関係をやっていた。電話のやりとりを聞きかじり、研修会にも参加し、自ら同和関係の本も購入し読んでみた。「門前の小僧お経読む」のとおり、少しは差別の問題が判ったような気がする。
 熊本農政局に異動した平成元年は、熊本県波野村にオーム教が進出した年でもある。阿蘇の生まれふるさとの近くでオーム教との攻防が行われていた。平成2年7月には一の宮町を中心に大雨の災害に見舞われた。直径40㎝程になっていた山林5反部程もほとんど流された。ふるさとに悪いものを持って帰ったような気がした。
  東京に住む甥の高木敏が結婚することになっていた。本人から媒酌人をやってくれと頼まれていた。職場の上司や友人が適正だろうと断っていたが、実家の兄貴・高木守成からも是非にと依頼された。相手は神奈川県在住だし、結納等の儀式も土地勘のある私がいれば心強かったんだと思う。結婚式は、元年12月横浜の港の見える丘で厳かに行われた。平成2年には、熊本県庁に勤める甥・山部末二の媒酌人として依頼された。親の反対等があったが、本人達の気持ちが強く、強行突破し結婚式を強行した。九州・熊本へ帰り2年間の間に、甥っ子とは言え瞬く間に2件の媒酌を行った。
 この年に初めて消費税(3パーセント)が導入され、美空ひばりが死去し、ベルリンの壁が崩壊した。また、日経平均株価が史上最高値(3万8,915千円)を記録している。


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