• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

動機

熊本シニアネットに加入し、PCに関する勉強の機会を得た。
私は覚えることが遅い。しかし、なかなか途中で投げ出さない執拗さがある。ある時は長所にある時は短所になる。それでも何かを残すためホームページ作成に挑戦することにした。
まさしく「70ジィの青春日記」だ!

まさかの困難を乗り越えて

 平成元年4月、期待と不安を抱え東京から熊本に帰ってきた。抱えていたのは期待と不安だけではない。1年前(昭和63年)に亡くなった次男の遺骨も一緒に抱えていた。霞が関の林野庁に18年間勤めた。その間には国際協力事業団(現国際協力機構)にも出向し、タイ国・チェンマイに派遣され約3年間タイ国との林業協力プロジェクトにも従事した。
 砂漠化する地球を何とかしたい、戦後の日本を見事に復興させた日本人のコツコツ精神を世界に示したいとの思いで生涯を海外林業協力に従事することも夢見た。これは2つの「まさか」で見事に砕けた。一つは長男(真一郎)が障害を持って生まれたのである。小さい頃は普通の子どもと変わりなかったが、成長するにつれ違いが顕著になってきた。それでもタイ国には家族同伴で行くことができた。2つ目の「まさか」は次男(誠也)がタイ国から帰国した2年後10歳で帰らぬ子供となったことである。養護学校に通う長男と次男の遺影を見て東京での生活に自信が無くなった。生活環境を変える、自分自身を変える、未来を変える、受け入れてくれるのは故郷しかなかった。多くの人の計らいで林野庁から九州農政局への転勤となった。「故郷に錦を飾る」という言葉があるが真反対の「負け犬」のような気持であった。仕事は林政から農政へ変わった。私は昭和24年阿蘇郡一の宮町で生まれ地元の阿蘇農業高学を卒業し林野庁勤務となっていたのである。農政関係を司る九州農政局では知らないことも多かった。それでも素直に知ろうとした。県・市町村の担当者、現場や農家の方々に自ら近づき教えを請うた。
 平成元年12月には熊本市内にわずかな土地を求め、翌年には待望のマイホームも手に入れることができた。長男・真一郎は菊池病院重心病棟に入所、菊池養護学校の小学部を卒業した。平成6年熊本市内の江津湖療育園(現くまもと江津湖療育医療センター)に移動し、中学部、高等部も卒業することができた。
 町おこしや村づくりの仕事も担当し、九州管内の農家民宿や農家レストラン、汗と知恵を出し続ける農家の方々とも親交を深めた。これをきっかけに異業種の方々の情報交換としてA4判16ページ程度の個人的なミニコミ誌「ドリーム」を毎月発行し始めた。当初はポケットマネーで印刷費、通信費を負担していたが、途中から任意団体の会費制となった(今年1月が通算第218号となり18年間継続している)。家庭では長女が結婚し姓は変わったが同居することとなり2人の孫にも恵まれた。平成20年3月定年退職後には防犯協会、小学校の読み聞かせ、昔遊びの伝承等、地域ボランティア活動に取り組んだ。
 全てが順調な生活に第3の「まさか」が起きた。平成29年7月「悪性リンパ腫」が見つかった。8クールにわたる通院、3クールの入院による抗がん剤投与、20回の放射線治療、死を覚悟したこともあるが奇跡的に恢復した。私にとって「平成」は波乱万丈の時代であった。それでもコツコツ乗り越えた時代でもあった。


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