• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

中学校時代(昭和36年~38年)

 井の中の蛙で過ごした小学校から自転車で通う中学校は、異次元の世界であった。もちろん背の低さは相変わらずである。由緒深い阿蘇神社が存在する一の宮町に一の宮中学校はあり、4つの小学校(坂梨、宮地、古城、中通り)から子供達が集まっていた。

 同級生は昭和23~24年生まれの団塊の世代であり、一番同じ年が多い年代である。1クラス50名ほどもおり、特別に作ほどであった。ピカピカの自転車を買ってもらい、大ヒットした坂本九の「上を向いて歩こう」を口ずさんでペタルをこいだ。Pen.Pinで始まる英語にどぎまぎした。違う小学校から進級してきたちょっと大人びた、髭の濃い背の高い同級生を見ると、ちょっと怖かった。小学校時代は一人の先生が全ての科目を教えてくれていたのに、中学校になると担任の教師は決まっているが、朝と夕方(いわゆるホームルームの時間)に現れるだけで、他の時間は分業制になっているのに驚いた。ちょっと突き放された感じで寂しかったが、大人に近いという気持ちもあった。 成績は特に悪いと言うこともなく、中の上くらいだったと思う。塾に行くわけでもなく、親・兄弟が勉強しろと言うわけでもなく、ただ漫然と過ごしていた。いつかの試験の時、クラスで2番、学年350名中14番になったことがベストの記録だと思う。その後は上の下か、中の上位の成績であった。社会慣れしている同級生は、球技やブラスバンド等のクラブ活動をしていたが、特に興味があるわけでなく、真っ直ぐ我が家に帰り、田畑に行っている母や兄たちにお茶等を運んでいた。
 初恋は中学校2年生の頃だと思う。1年下に可愛い子がいた。田舎者の自分は話すことなどもちろんできず、あの手この手を使い、名前と住所を突き止めた。この頃、記念切手を集めることが流行していた。「私は切手を集めています。素敵な切手をプレゼントします」と書いてラブレターみたいなものを送った記憶がある。自分の名前を書くこともできず、○年○組、イニシャルでごまかしていた。あ~なつかしき想い出・・・。
雨の日も風の日も自転車通学であった。今でもそうなのか判らないが、中学校では2年生、3年生に進級するときそれぞれに組替えがあった。真面目だった中学校も3年生ともなると、少しは悪ガキになった。3年生の時の修学旅行は○○に行った。
 こんなことがあった。普通の時は、誰でも教室の隣にある靴箱から靴を取り出し、はるか向こうまで廊下を歩き、玄関口を通って校門に出る。ある時、自転車置き場で待っている同級生が、玄関口を回るのは遠くで面倒だろう!と、はやしたてたので、玄関口に行くのも面倒くさくなり、鞄・靴を抱え窓から飛び降りた。渡り廊下を通りがかった担任の先生に見つかった。「なんてことをやっているんだ!最初からやり直せ!」と怒られ、玄関口から教室に戻りやり直すことを命ぜられた。もちろん、ペコペコ頭を下げ謝った。戻る途中は、あ~あ、急がば回れとはこのことか!と考えながら教室に戻ったら、先程の悪友が、もう先生は見ていないから早く窓から飛び降りろ!と、またはやしたてる。若気にいたりとはこのことか!再び窓から飛び降りた。物陰から見つめていた先程の担任教師に見つかったのはいうまでもない。その後は、職員室に連れて行かれ、首から画用紙を吊した。その画用紙には、「私は、窓から飛び降り反省したにもかかわらず、数分後には再び窓から飛び降り・・・」と書かれていた。職員室に入ってくる先生達が誰も彼も、この文章を読み、あきれ顔で睨んでいた。
世界に誇る阿蘇山に自転車(今でいうママチャリ)で登ったこともある。帰る途中のアスファルトの道路で、自転車を飛ばしすぎ、ひっくり返った。足や手を擦りむいた程度で済んだ。学校や我が家に正直に報告すると、心配されるより怒られることを知っていたので、黙っていた。


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