• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

幼年時代

昭和24年(1949年)3月21日にこの世に生を受けた。父・守が48歳。母・スマが36歳の子供である。兄弟は5人の末っ子。兄弟5人であると思いこんでいたが、姉が2歳ほどでなくなっているのを気づいたのは、相当後になってからである。

父はわずかな田畑を貰い分家している。3人兄弟の父は自分だけが母親が違い(後妻)、分家の際に両親が付いて来たという。このためか私が生まれた家は、今でも「本宅・本宅」と呼ばれている。戦前のことであり、分家で小作であったため貧しかったに違いない。20歳前後で結婚した母・スマが苦労した話は私の兄妹達から何遍となく聞いている。
 戦後生まれたのは、私一人。2歳で亡くなった姉を除けば、兄二人、姉二人である。一番上の姉・スヨは昭和9年生まれなので15歳離れている。私が、小学校1年生の時、学校から帰った日に嫁いでいったのをかすかに覚えている。 次が兄・守成。私と13歳違い。私は、父・守が高齢(48歳)の時の子供であるため、物心ついたときは、父はもう爺ちゃん的な存在だった。このため、この長兄・守成が父親代わりになってくれた。
 昭和42年、高等学校を卒業し、布団袋を持って就職する際、私に同行し、お世話になる人々に挨拶したりしたのが、守成31歳の時。頼もしい限りの父親代わりであった。
 次の兄・良文が昭和15年生まれの9歳違い。両親は仕事が忙しいため、この次兄・良文に連れられ小学校に行ったことも少し覚えている。兄が授業時間は、運動場で一人で石ころなどを使い遊んでいた。休み時間になると教室に行くのであるが、女の人々にあめ玉か何か貰ったような記憶がある。良文に言わせると、人気者であったらしい。そして次女さわ子が昭和18年生まれの6歳違い。
 戦後の農地改革でいくばくかの土地を手に入れた我が家でも、家の生活は裕福ではなかった。と言っても私の幼年時代になると、家の仕事で学校を休むようなことはなかった。長兄・守成は中学を卒業すると直ぐに農業を継いでいる。当時(昭和30年頃)は牛や馬の家畜が農作業の主体で、父の農作業の姿はほとんど想い出さないが、長兄・守成が牛馬を使って畑仕事をやっている姿は瞼にこびりついている。
 4歳の時「紐解き」としてお宮に参った写真が一番古い。写真を撮るとき、写真屋さんが布をかぶるのが怖く、母の元に駆け寄ったのを覚えている。
小学校入学前に友達と遊んだ記憶は思い出せないが、家族と一緒に馬車に乗り畑仕事にいったことはいくつか覚えている。みんなが農作業を行っているときは、馬車の上で棒を立て、ムシロやゴザ等をヒモで引っ張り、暑くないように影か何かを作っていた思いでもある。 次に覚えているのは、私をにらみつけ腹をプクプクさせている動物を見たことだ。私だけを睨みつけ動くことなく呼吸している。背中が青く腹が白い雨蛙だ。凍り付いた感じで数分間動けなかった。ビックリし、仕事をしている両親の元に走って行き、状況を説明したが、両親は何の動物か推測できなかった。牛や馬が食べる飼料を入れる桶(駄桶)の中に入れられたような気もするが、自分が覚えているのか、後になって兄妹達が話していることで判ったことか、はっきりしない。
 こんなことがあった。晩秋に干し草を刈りそのまま原野に保管しておき、冬になるとそれを運ぶ。保管している干し草を取りに行く時は、朝が早いこともあり、牛に乗ることができる。勾配が急なところになると、牛がきついだろうと言うことで歩いてついて行かなければならない。動物や他の者に対する優しさを教えられた。まだ、小学校入学以前のことである。
 両親や兄が農作業から持ち帰った帰った、弁当箱に付いているススキの箸を使うのが嬉しかった。農作業に弁当を持って行き、箸を忘れた時、緊急に野にあるススキを箸の代用にして使い、それを捨てることなくたまたま持ち帰った時にススキの箸を使うのである。なんとなく大人の仲間に入ったような気がした。小学3~4年生頃になると、馬車で干し草を運んだ。西部劇に出てくるような格好で原野を馬車が行き、山と積んだ干し草を馬が引く。冬の原野の北向きは地盤が氷つき、荷物の重さに耐えかね、馬車は立ち往生する。隣のおじさんと兄貴(守成)は、馬と馬とを連結させ2頭引きを試みる。2頭の馬の意思疎通がうまくいかずなかなかうまくいかない。凍った地盤で馬の蹄が火を発し、阿蘇の厳冬の中で、馬も引き手も汗びっしょりになっている。小さいながらも「頑張れ、頑張れ」と心の中で祈っていたことを想い出す。

 


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