• 悪性リンパ腫を克服した70爺の愉快な生きざま

江津湖療育園保護者の会活動(平成6年~)

 平成6年10月、熊本市に重症心身障害児(者)のための施設が開設された。国立菊池病院へ入院していた、長男(真一郎)の動きが少し鈍くなってきたこと及び新しく建設された江津湖療育園の方が、我が家からも近かったことから入所施設を変わることとした。熊本県児童相談所へ相談し、アドバイスをもらい平成7年1月に江津湖療育園に入所した。

 江津湖療育園は新しく開設された施設であるため、新しく入所する方々は在宅の人や色々な施設から集まって来ていた。
障害児(者)を抱え、新しい施設ではあるが、皆不安そうにしている。親の会を立ち上げるため、活発な活動しそうな方々のお願いして回り、「親の会設立発起人」を創った。施設側のみに頼っていては、保護者自身が独立心が欠けることから、国立菊池病院の親の会の役員をやっていた経緯もあり、私もこの「発起人」に選ばれ設立に向けての検討に入った。会の基本となる規約をどのように定めるか、その規約の中に、目的、役員会費、を盛り込み設立総会の開き方等を、保護者の方々が皆さん素人ながら検討し始めた。障害児に対する対応は、施設経営者の運営方針、そこで働く看護婦(士)や保母さん達のスタッフ、そして保護者の三者が心を一つにしなければ、本当のケアはできない。試行錯誤を繰り返しながらも江津湖療育園の指導と協力により、設立総会までこぎつけたところ、副会長を仰せつかった。重症児の子供達の声なき声を療育園や社会に反映させるため、なんとか保護者の会を軌道に乗せたく頑張った。定期的な役員会の開催、月一回の会報の発行、療育園との話し合い、行事等の後にスタッフと合同の懇親会、等を通じて、会の活動も活発になった。平成7年 月には、保護者の会設立1周年記念講演会も開催し、社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会にも江津湖療育園保護者の会全体で加入することを決定し、現在に至っている。

 障害者がいることを隠そうとする人、施設に入っていることを公表していない人、保護者の会の仲間にもまだまだそのような人達がいる。正直言ってそのような人達の気持ちも痛いほど分かる。忙しい中に役員を引き受け活動したが、「他人を変えるにはまず自分自身が変わらなければならない」「他人を動かそうとする人はその人が一番動いている」等を手帳に書きなぐり、くじけそうななったらそっと読んだものだ。
 当初40床であった江津湖療育園も平成○年○月40床増えた。病棟も1病棟2病棟と分かれ、ベッドに寝たきりの超重症児(者)から自分で歩くことが出来る障害児(者)まで78名が入所している(20年4月現在)。

「保護者と施設は障害児(者)を真ん中においた車の両輪である。」が会のモットーである。施設スタッフと保護者が連携・協力し合わなければ、障害者の幸せはない。春のファミリーデー、夏祭り、運動会、クリスマス会等療育園の行事には、保護者会も積極的にお手伝いする。とりわけ、夏祭りでは不要品のバザーやヤキソバ等の出店で、保護者そのものが活き活きと活躍する。その他、「ボランティアを求める前に自らボランティアを」をキャッチフレーズに年2回の奉仕活動、運動会後の養護学校の先生、療育園スタッフ、保護者の合同懇親会は楽しみの一つだ。

熊本県重症心身障害児(者)を守る会

施設と保護者会は車の両輪

日本重症心身障害福祉協会西日本施設競技会 広報

自分が先に死んだら(障害者の親 尽きぬ不安)

熊本日日新聞(2010年9月21日)

コッコファームで講演

 ㈱コッコファームで講演を行うこととなった。当初、熊本大学の徳野先生から相談があったときには躊躇した。「クラシを科学して、幸せの収穫を!」が大きなテーマだ。「高木さんには『クラシの中の福祉』をやってもらおう!」相談と言うより一方的な命令口調だった。何を話すか?瞬間的に頭の中で、感(カン)ピューターが作動した。子どもが重症心身障害者であり、この関係で福祉団体での活動は行っているが、福祉関係について、体系的・時系列的に勉強したわけではない。ちょっとだけ迷ったが、楽天的な性格からか「ア~判りました。やりましょう!」と答えてしまった。
一歩踏み出す勇気
 日頃から、空手や読み聞かせを通じ、子ども達に「一歩踏み出す勇気!」を問うているのに、自分が尻込みしていたら何とする!との自分自身への反骨精神も湧き出てきた。自分自身を振り返り、まとめる機会になる。

  • メーッセージを伝えることにより、自分自身の生き様が客観的に見える。
  • 自分の体験が、社会の共感を得たり、同じ境遇の人たちの力になる。

このようなことを考えた。何をメインにするか?障害者の親として、それは、障害の受容過程を振り返り語ることだ。多くの親は、障害児(者)とクラシを共にする一生涯の中で、①ショック時、②否認(拒否)時、③怒りや絶望時、④再起・適応時を段階的に踏む。これは、障害の種類・軽重に関わらず、多くの親が辿る道だと思う。ショックを受けたこと、憤ったこと、傷ついたこと、涙を流したこと、絶望感にさいなまれたこと、共に歩もうと誓ったこと、自分一人じゃないこと、支え合う社会のこと・・・この障害の受容過程の高木バージョンを作り、その時、その時の思いを素直に話すことにした。

 昭和49年に結婚し、53年5月に第2子(第1子は女)の長男が生まれ、「路傍の石の真実一路」から「真一郎」と名付けた。長女は10ヶ月ほどで歩き始めたのに、真一郎は、歩き始めたのが1年3ヶ月ほどしてからであった。1歳時の検診では、「パパ、ママ、マンマ、ブーブーなどのような言葉を一つでも話しますか」の問に「いいえ」の答となっており、2歳時の検診では「ワンワン・キタ、マンマ・チョウダイ」などを言いますか」の問いにも「いいえ」となっている。今、思い起こせば、2歳くらいの時、自転車の後ろに乗せ、後ろから私の腰にしっかりと手を回し、「パパ・パパ」と言ったのがハッキリと言葉を発した最初で最後であった。この後はア~とかウ~とかうなるような声で自己表現を行い、はっきり判る言葉を発することはなかった。3歳時検診の時、保健所から「専門の先生の診断を受けた方がいい」との勧めもあり、当時世田谷区にあった国立小児病院の門を叩いた。この時のことだ。専門の医師から障害があることを告げられた。「先天性代謝異常」・「ムコ多糖症」と宣告された。当時は、何を言っているのか全く判らない。まさしく人ごとのようなものだ。食事から摂取した蛋白質や糖質は、体内に入ると1つの成分に留まらず次々に変化するが、何かの酵素が欠損した場合、異常の代謝産物ができるという。老廃物を分解すべき酵素が不足(欠損)しているので、臓器が肥大したり障害を起こしたりするという。このことにより、知能的が遅れ、その結果障害が表れるというのだ。判ったような判らないような説明に、頭をハンマーで殴られた感じであった。まさか!障害者を持つほとんどの親がそうであるように、この時の衝撃は計り知れない。今考えてもあの時の医師の口元の動きが頭をよぎる。戸惑いの連続だ。何故、我が子だけに生まれつきの障害があるのか、何故障害を持って生まれてきたのか、我々家族が世間に対し何か悪いことでもやったか?スヤスヤと眠る寝顔を見て、イヤ!これは医者の診察間違いだ!と一人涙を流していた。55年2月、1年9ヶ月違いで次男が生まれまた。嘘をつかない正直な人間になってもらいたいと思い、「誠也」と命名した。子どもが生まれるたびに、妻の母や私の母が九州から東京まで、手伝いに来てくれた。誠也はほとんど手がかからなかった。真一郎の障害が見つかり、こちらに手がかかり、誠也には手を掛ける暇がなかったのが本当かも知れない。57年4月には長女(織江)が地元の幼稚園に年中組で入園した。この頃、妻・トシ子は、子供が寝ている朝方に、そっと起きて自転車の練習をした。幼稚園の送り迎えの必要からさ。自転車の後ろを持ち、右だ・左だと言いながら協力した。1年後の58年、同じ幼稚園に真一郎も入園させようと、相談に行ったところ、既に彼は落ち着きが無く場所・時間をかまわず動き回る多動性の症状であった。このため、幼稚園からやんわりと断られた。長女を幼稚園に送った後、妻(トシ子)は4歳になる真一郎を背中にオンブし、1歳8ヶ月違いの弟(誠也)を自転車の前に乗せ、児童相談所に行ったり、訓練するところがあれば藁にもすがるつもりでペダルを踏んだ。多動性の子どもプラス幼い兄妹で、家の中では走り回り、テーブルから飛ぶ・・・官舎生活で丁度、受験生の子供もいた階下の人には迷惑を掛けた。近くの公園で遊ぶときも、砂場で友達に砂を掛け、おもちゃを投げる乱暴性とどこにでも・どこまでも歩いていく多動性にハラハラしながら後を追った。ショックと共に肩身の狭いクラシを送っていた。

 林野本庁勤務であった私も、人事上、年齢的に現場に出る年齢になっていた。国内でなく海外派遣の話が事前にあった。国立小児病院の主治医の先生の所に走った。病気のことが受け入れられず、まだまだ良くなると思っている私に「真一郎君のためには広いところで思いっきり遊ばせるのも良いでしょう!」との返事。環境も変わり、広いところで自由に遊ばせれば良くなるかも知れない!微かな光を求めて、59年1月国際協力事業団に出向し、タイ国に赴任することになった。担当者を一人特別に付けてもらい、弟の誠也と一緒にタイ国の幼稚園に通うことになった。言葉が判らないのも好都合と考え、我が子は大丈夫だ!と思うようにした。今考えれば、病気(障害)が受け入れられず、ひいき目で見ていたに違いない。

 昭和61年、帰国後慌ただしく学校関係の手続きを行う。知能的にも普通学校に行くのは無理であった。そのため、世田谷区から近い「調布養護学校」に通うことになった。幸いに調布養護学校はスクールバスがあり、乗り降り場までは妻が送迎していたが、時には私が送迎した。その当時、まだ子どもの病気(障害)を受け入れることができなかった私は、職場の同僚や長女の友達の親に会うのが恥ずかしかった。「どうしてこんな知恵遅れの子どもが、よりによって我々の家に生まれてきたのだろう?」と、自問自答した。オロオロする親の気持ちも判らず、あちこち走り回る我が子を憎らしく思ったこともある。今、考えれば、手を挙げなくて良かった。手を挙げエスカレートしていれば…と思うとゾッとする。不運は重なるもの。ほとんど手がかからなかった次男(誠也)が63年3月自転車事故を起こした。1ヶ月の入院後、天国に旅立った。「障害者が生き残り、何故健常者が亡くなっていくのか?」住宅は狭い官舎であり、朝夕は真一郎の送迎の追われ、日中は、タンスの上に置かれている遺影が目に入る状況で、妻が一番苦しい時期・絶望の時期ではなかったかと思う。極端に言えば、一家心中したほうが楽というか、幸せではないかとも思った時期であった。

 頭の中で、色々と考えていても前進しない。悩んでいても解決しない。この苦境を乗り切るのは自分自身しかない。冷静に冷静に考え通した。職場環境、生活環境を変えること、障害を持つ真一郎主体の生活に変えること、そのためには、終の棲家を作ることに辿り着いた。職場の上司に相談し、林野庁から九州農政局への配置換えが叶った。平成元年4月のことである。熊本県児童相談所に行き真一郎のことで相談した。結局、家から車で40分ほどの距離にある国立菊池病院に入所することになった。手続きを済ませ菊池病院に子どもを置き、帰るときは後ろ髪を引かれる思いであった。正直言えば、心の片隅には、ホッとした気持ちもあったことも事実だ。ここ菊池病院には、強度行動障害をもつ障害児(者)が80人ほど入所していた。色々な症状の障害児(者)の人がいた。学校は、菊池養護学校の「院内教育」である。親の会に入会し、同じような境遇の人たちと話す機会が多くなってきた。学校行事を含め、春のピクニック、花見、夏祭り、海水浴、運動会等々、既に真一郎主体の生活環境になっていた我々は積極的に参加した。保護者の方々と涙を流したり、多くの障害児(者)と交わるうちに、すでに子どもの障害も障害児であることも受け入れていた。
 その後、平成6年熊本市内に重症児施設「江津湖療育園」が開園されることになり、熊本市内であること、家から近いこと(20分)、病気の進行により既に動きが鈍くなり、動く重症児の範疇からはずれていること、等々から江津湖療育園に入所することになった。
 療育園の保護者会だけでなく、全国的に同じような境遇の人たちが組織する「全国重症心身障害児(者)を守る会」にも加入した。「最も弱いものを一人残らず守る」に共鳴し、熊本県内でも役員となり活動している。

 今、振り返ってみると、障害児を授かったことに対し、①ショック時、②否認(拒否)時、③怒りや絶望時、④再起・受入時があった。自分自身の年齢的なこともあるかと思うが、その時その時点で一生懸命生ききたことにウソはない。これに追加するとすれば、⑤相談・普及時というものがあるかも知れない。障害児が生まれる確率は決まっているという。神様が「○○さんの家であったら大丈夫だヨ」と言って授けるという。神様から授かったことを初めは判らない。しかし、この授かった家族の方々の相談に乗り、障害や障害児(者)の理解のために、自分のできる範囲で尽くしていきたい。この最後の⑤「相談・普及時」があるからこそ、今回の講演を引き受け、この原稿を書くきっかけになったかも知れない。

 


PAGE TOP