昭和39年は、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。ノンビリした田舎の生活は、社会の目まぐるしい動きにも鈍感であった。中学校時代は、将来どのような仕事をしたいかも判らず過ごした。ただ家が農家であり、裕福でなかったこともあり、漠然と地元の高等学校に行くんだろうなぁーと言う気持ちであった。年の離れている長兄・守成は父親代わりに働き中学校を卒業すると跡取りとして働いていた。このようなこともあり、自分自身の高等学校の選択も地元の高校に限られ、結局、地元の熊本県立阿蘇農業高等学校林業科に進学することとした。
阿蘇農校は、「農業科」「林業科」「畜産科」「農業土木科」「家庭科」5つのクラスがあり、それぞれ30名の定員。家庭科のみが女子生徒である。ほとんどが農家出身の生徒だ。1クラス30名で現在の競争も感じられなかった。いわゆるみんなが仲間達であり、劣等感も優越感もなく、よく言えば差別のない和気あいあい、悪くいえば何の特徴もないドングリの背比べ。舟木一夫の「高校3年生」「仲間たち」等の学園シリーズが流行していたが、思い出して口ずさむとまさしく舟木一夫の世界に戻る。
学校は、阿蘇外輪山の真っ只中に位置し、教室から阿蘇の五岳を眺めながら勉学に励んだ。勉学というより、阿蘇山の麓での測量の実習、阿蘇と別府をつなぐ通称「やまなみハイウェイ」の近くにある演習林での宿泊実習等が楽しかった。演習林での下刈り実習等の時、誰かが持ち込んだエロ本に興奮し、高校生ながら5円や10円を賭けての花札。大きい悪いことはしなかったが、小さな悪いことをコソコソと・・・。ハンドルを少し動かしても直ぐに車輪の動きに結びつかない「遊び」があるように、人間の成長にはこのような仲間との遊びも必要だと、60歳になって思う。
田舎の学校であっても、それなりに思春期であり林業科生であったため、杉林の下刈り作業か何かの実習が行われ、開通して間もない「やまなみハイウェイ」をバイクで飛ばし、瀬の本高原レストランで実習服を着ながらビールを飲んだ。高校生であり、実習服であり、バイクで来ておりながら、ビールを飲むという大胆さは今考えると滑稽に思えてくる。丁度、熊本県内の補導関係教師の研修で来られた人達に補導された。友達5名と一緒に1週間の謹慎処分となった。他の6名グループは喫煙している現場を取り押さえられ、同じく謹慎処分である。1クラスで12名者大量処分者が出て、学校当局のメンツも何もなかったものと思われる。母親は「学校に詫びに行こう」とオロオロしていたが、父親は「おまえが人のものを盗ったり人を傷つけたりしたわけじゃないから心配するな」と言ってくれた。少し大人になりかけの頃のこの言葉で、さすがに父親は違うなと思った。学校には演習林を持ち、時々実習があった。下刈りや除・間伐の仕事である。友人数名と花札で遊んだ記憶もある。
次兄・良文が同校を卒業し国家公務員(熊本営林局勤務)をしていたため、3年生となった頃は、何の疑問もなく自分も公務員の道を進むべきであるみたいな気持ちになっていた。家族はもちろん学校関係者も、公務員への道を望んでいたし、林業科卒業生は何名が公務員となるかを競うような雰囲気であった。 林業科では入学すると同時に3つの目標を持たされる。「珠算検定3級」「測量士補試験」「国家公務員初級試験」の3つへの合格である。幸いなことに、この3つともクリアすることはできた。